一日1分?結婚式挨拶・スピーチ・朝礼等が苦手なあなたも精神的苦痛やストレスから97.8%解放できる名言!!

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戦国武将 辞世句 独眼竜 伊達政宗の名言-「曇りなき 心の月を 先だてて 浮世の闇を 照してぞ行く」

目次 1 言葉の意味 「曇りなき 心の月を 先だてて 浮世の闇を 照してぞ行く」

     雑談・豆知識(伊達男)

    3 戦国武将 独眼竜 伊達政宗とは

   ★1「曇りなき 心の月を 先だてて 浮世の闇を 照してぞ行く」の意味

 この言葉(辞世句)は、「自分の人生は、何も見えない暗闇の中を、曇りのない月の光で照らして進むような一生であった」と、言う意味です。

 私には、迷うことなく、真っすぐに突き進み、悔いのない人生であったように感じます。

 もちろん、若い頃は、天下を取れなかった悔しさはあると思いますが、壮年になってからは、天下取りの野望というよりは、伊達家の為、家臣の為に領土を拡大、領土を守ることを大切にしたのではないでしょうか。

 自分の人生を終える時、このように月の光で照らされた一本道を、迷うことなく真っすぐに突き進んだ人生であったと言いたいですね。

 

 ★2 雑談・豆知識(伊達男)

 伊達男とは、人の目を引く派手ないでたち、少し破天荒な行動、粋な行動などの意味がありますが、この言葉の語源は、伊達政宗からきたとも言われています。

 伊達政宗とは、男が惚れる男だったように感じます。

 伊達政宗は、大好きな武将の一人です。

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 伊達政宗の他にも、武田信玄、真田幸村、前田慶次郎、直江兼続、織田信長のフィギアもありますよ。 ↓

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★3 戦国武将 独眼竜 伊達政宗とは

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 伊達政宗は、永禄10年8月3日(1567年9月5日)に、出羽国米沢城(現在の山形県と秋田県の一部)で、伊達氏第16代当主である伊達輝宗の嫡男として、正室の最上義守の娘である義姫(最上義光の妹)から生まれます。。

 幼名は梵天丸で、元服して伊達藤次郎政宗と名乗ります。

 諱の「政宗」は、父の輝宗が、伊達家中興の祖といわれる室町時代の第9代当主である大膳大夫政宗にあやかって名づけたものです。

 天正7年(1579年)、伊達政宗が13歳の時に、三春城主である田村清顕の娘、当時12歳の愛姫を正室に迎えます。

 天正12年(1584年)、父である輝宗の隠居にともない家督を相続し、伊達家第17代当主となります。

 天正13年(1585年)の人取橋の戦いでは、二本松城救援のため集結した佐竹氏率いる約3万の南奥州諸侯連合軍と激突し、数に劣る伊達軍はたちまち潰走し、政宗自身も矢玉を浴びるなど危機的状況に陥りますが、殿軍を務めた老臣である鬼庭左月斎の捨て身の防戦によって退却に成功し、翌日の佐竹軍の撤兵により辛うじて窮地を脱します。

 天正15年(1587年)、関白である豊臣秀吉は関東・奥羽の諸大名に、惣無事令(私戦禁止令)を発令しますが、政宗は秀吉の命令を無視して戦争を続行します。

 天正17年(1589年)、会津の蘆名義広を磐梯山麓の摺上原(摺上原の戦い)で破った政宗は、現在の福島県の中通り地方と会津地方、及び山形県の置賜地方、宮城県の南部を領し全国的にも屈指の領国規模を築きます。

 秀吉の小田原攻囲(小田原征伐)中である天正18年(1590年)5月には、豊臣政権の浅野長政から小田原参陣を催促され、政宗は会津を出立し、秀吉に服属します。

 この時秀吉は、会津領を没収したものの、伊達家の本領72万石(おおむね家督相続時の所領)を安堵します。

 文禄2年(1593年)秀吉の文禄の役に従軍しますが、この従軍時に政宗が伊達家の部隊にあつらえさせた戦装束は、絢爛豪華なもので、世間の噂となります。

 これ以来派手な装いを好み着こなす人を指して「伊達者(だてもの)」と呼ぶようになったと言われています。

 秀吉の死後、政宗と五大老の徳川家康は、天下人であった秀吉の遺言を破り、慶長4年(1599年)、政宗の長女である五郎八姫と、家康の六男である松平忠輝を婚約させます。

 慶長5年(1600年)、家康が会津の上杉景勝討伐の軍を発するとこれに従い、登坂勝乃が守る白石城を奪還し、家康が石田三成軍と戦うために畿内(関ヶ原)に向かう際家康は政宗に対して、岩出山転封時に秀吉より没収され、この時点では上杉領となっていた旧領6郡49万石の領土の自力回復を許す旨の書状(百万石のお墨付き)を送っています。

 この後、翌年春頃まで幾度か福島城攻略のために出兵しますが、緒戦の失敗を取り戻せず、旧領6郡のうち奪還出来たのは、陸奥国刈田郡2万石のみで、領地は60万石とります。

 後に、近江国と常陸国に小領土の飛び地が加わり、2万石の加増で62万石となります。

 慶長6年(1601年)には仙台城と、仙台城下町の建設を始め、居城を移し、伊達政宗を藩祖とする仙台藩が誕生します。

 石高62万石は、加賀の前田氏、薩摩の島津氏に次ぐ全国第3位で、徳川幕府からは松平の名字を与えられ「松平陸奥守」を称します。

 慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では、大和口方面軍として布陣し、和議成立後は、外堀埋め立て工事の任にあたります。

 同年12月に、将軍秀忠より伊予国宇和郡に領地を賜ります。

 慶長20年の大坂夏の陣では、道明寺の戦いで後藤基次らと戦い、後藤基次を自刃させます。

 戦がなくなってからは、領国の開発に力を入れ、仙台藩の表高62万石に対して、内高は74万5千石相当の農業生産高を確保したと言われています。

 寛永13年(1636年)4月20日に参勤交代に出発した政宗は急に病状を悪化させ、江戸に入った頃には絶食状態が続いた上に腹に腫れができ、同年5月24日に死去します。

 享年は70歳でした。