一日1分?結婚式挨拶・スピーチ・朝礼等が苦手なあなたも精神的苦痛やストレスから97.8%解放できる名言!!

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安土桃山時代 戦国武将 越後の龍 毘沙門天 上杉謙信の名言-「生を必するものは死し、死を必するものは生く。」

目次 1 言葉の意味 「生を必するものは死し、死を必するものは生く。」

     雑談・豆知識(越後・新潟県)

    3 戦国武将 越後の龍 上杉謙信とは

★1「生を必するものは死し、死を必するものは生く。」の意味

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 この言葉は、「生きていたいと思って戦場へ行くものは死に、死の覚悟を持って戦うものは生きて帰ってくるもの。」と、言う意味です。

 でも、戦争に行き、家族や、恋人のことなどが気になって、誰もが生きて帰ってきたいと思いますが・・・

 後顧の憂いを残さないように、結婚をしなかった武将もいたとか。

 やはり、生半可な気持ちで、大事に望むのはダメなんでしょうね。

 このブログで何度も出てきているキーワードが、「覚悟」ではないでしょうか。

 腹を決めて、覚悟を持って物事に望むと、良い結果が出るものです。

 逆に言えば、目標達成や良い結果を望むなら、「覚悟」が必要だと言う事ですね(^^♪

 

 ★2 雑談・豆知識(越後・新潟県)

 越後、現在の新潟県ですが、昔(20年ほど前)にスキーをしに、赤倉温泉スキー場に行ったことがあります。

 本当に昔の記憶なので、行ったことしか覚えていませんが(^-^;

 今、新潟に行くなら、春日山城、佐渡島、越後湯沢温泉など、観光を満喫したいですね。

 雪の新潟も綺麗でしたが、気候の良い時に行きたいです。

 以前は、自分で運転をしてどこでも行きましたが、最近は年のせいか長距離運転が辛くなってきました(T_T)

 電車ならお酒を飲みながら、駅弁を食べながら、皆でワイワイ言いながら旅行をするのが楽しくなってきました。

 私がいつも利用するのが、一休のホテルです。

 

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 しかも、一休が管理運営するホテルは、一流のホテルが多いので、部屋は綺麗、風呂も綺麗、トイレも綺麗、もちろん食事も良いと、今まで外れたことは一度もありません。

 良いホテルって高いと思われるかもしれませんが、この一休から申し込むと、そんなに高くならないんですね(^^♪

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 これって、凄くないですか。

 これは、ホンの一例です(^_-)-☆

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 私は、自分がオススメできると思ったことしか、ご紹介はしないことにしています。

  

 

★3 戦国武将 越後の龍 上杉謙信とは

 上杉謙信は、享禄3年(1530年)1月21日に、越後守護代である長尾為景の四男(または次男、三男とも)として、春日山城に生まれます。

 幼名は、虎千代です。

 謙信の父は、越後守護である上杉房能を自害に追い込み、次いで関東管領の上杉顕定を長森原の戦いで討ち取りますが、次の守護である上杉定実を傀儡化して勢威を振るったものの、越後国を平定するには至りませんでした。

 天文5年(1536年)8月に為景は隠居し、虎千代の兄である晴景が家督を継ぎ、虎千代は城下の林泉寺に入門します。

 兄の晴景に越後国をまとめる才覚はなく、虎千代は天文12年(1543年)8月15日に元服して長尾景虎と名乗り、晴景の命を受けて栃尾城に入り、謀反を鎮圧することで初陣を飾ります(栃尾城の戦い)。

 天文17年(1548年)になると晴景に代わって景虎を守護代に擁立しようとの動きが盛んになりますが、上杉定実の調停のもと、晴景は景虎を養子とした上で家督を譲って隠退し、景虎は春日山城に入り、19歳で家督を相続し、守護代となります。

 天文20年(1551年)1月、長尾政景の反乱を鎮圧したことで越後国の内乱は一応収まり、景虎は22歳で越後統一を成し遂げます。

 天文21年(1552年)1月、関東管領である上杉憲政は相模国の北条氏康に領国の上野国を攻められ、居城の平井城を棄て、景虎を頼り越後国へ逃亡し、景虎は憲政を迎え、御館に住まわたことで、北條氏康と敵対関係となります。

 8月になると景虎は、平子孫三郎、本庄繁長等を関東に派兵し、上野沼田城を攻める北条軍を撃退、さらに平井城,、平井金山城の奪還に成功します。

 義清は景虎に援軍を与えられ村上領を武田軍から奪還するため出陣、同月に武田軍を八幡の戦いで破ると武田軍を村上領から駆逐し、葛尾城も奪還しますが、7月に再度晴信自ら大軍を率いて村上領へ侵攻すると、義清は再び越後国へ逃亡します。

 ここで景虎は晴信討伐を決意し、8月に自ら軍を率いて信濃国に出陣します(第一次川中島の戦い)。

 天文22年(1553年)9月、初めての上洛を果たし、後奈良天皇および室町幕府第13代将軍である足利義輝に拝謁します。

 天文24年(1555年)、景虎は再び信濃国へ出兵し、晴信と川中島の犀川を挟んで対峙した(第二次川中島の戦い)。

 弘治2年(1556年)3月、景虎は家臣同士の領土争いや国衆の紛争の調停で心身が疲れ果てたため、突然出家、隠居することを宣言し、春日山城をあとにして高野山に向かいますが、天室光育、長尾政景らの説得で出家を断念し、越後国へ帰国します。

 弘治3年(1557年)2月、晴信は盟約を反故にして長尾方の葛山城を攻略、さらに信越国境付近まで進軍し、景虎方の信濃豪族の高梨政頼の居城である飯山城を攻撃したため、晴信の盟約違反に激怒した景虎は、再び川中島に出陣します(第三次川中島の戦い)。

 永禄3年(1560年)5月、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に打ち取られたことで、甲相駿三国同盟の一つ今川家が崩れた機会に乗じ、ついに景虎は北条氏康を討伐するため越後国から関東へ向けて出陣、三国峠を越えます。

 上野国に入った景虎は、長野業正らの支援を受けながら小川城・名胡桃城・明間城・沼田城・岩下城・白井城・那波城・厩橋城、深谷城・忍城・羽生城等を支配下に治めつつ、氏康の居城である小田原城を包囲はしたものの、氏康と同盟を結ぶ武田信玄が川中島で軍事行動を起こす気配を見せ、景虎の背後を牽制したため、越後へ帰還します。

 この間に景虎は、上杉憲政の要請もあって鎌倉府の鶴岡八幡宮において永禄4年(1561年)、山内上杉家の家督と関東管領職を相続し、名を上杉政虎(うえすぎ まさとら)と改めます。

 このころ武田勢は北信へ侵攻していましたが、関東から帰国後した政虎は、1万8,000の兵を率いて川中島へ出陣します(第四次川中島の戦い)。

 このとき武田軍と大決戦に及び、武田信繁、山本勘助、両角虎定、初鹿野源五郎、三枝守直ら多くの敵将を討ち取り総大将の信玄をも負傷させ、武田軍に大打撃を与えます。

 その後、政虎は、将軍義輝の一字を賜り、名を輝虎(てるとら)と改め、越中、関東へと転戦を繰り返します。

 永禄7年(1564年)4月、武田信玄と手を結んで越後へ攻め込んだ蘆名盛氏軍を撃破しますが、その間に信玄に信濃国水内郡の野尻城を攻略されたが奪還し、8月に輝虎は信玄と川中島で再び対峙します(第五次川中島の戦い)。

 これ以降、輝虎と信玄が川中島で相見えることはありませんでした。

 永禄8年(1565年)3月、関東の中原をおさえる要衝である関宿城が、北条氏康の攻撃に晒されます(第一次関宿合戦)。

 永禄11年(1568年)12月、氏康は甲相駿三国同盟を破って駿河国へ侵攻していた信玄と断交、長年敵対してきた輝虎との和睦を探るようになります。

 元亀元年(1570年)4月、氏康の七男(異説あり)である北条三郎を養子として迎えた輝虎は、景虎という自身の初名を与えるとともに、一族衆として厚遇し自身は、法号「不識庵謙信」を称し、ここに上杉謙信が誕生します。

 元亀2年(1571年)10月、長年関東の覇権を争った北条氏康が世を去り、後を継いだ北条氏政は上杉との同盟を破棄し、武田信玄と再び和睦したため、謙信は再び北条氏と敵対することになります。

 元亀3年(1572年)5月、謙信は尻垂坂の戦いで一向一揆に圧勝し、苦戦の末に富山城、滝山城を陥落します。

 翌天正元年(1573年)4月、好敵手であった武田信玄が病没したため、武田氏の影響力が薄らぎます。

 天正元年(1573年)8月、謙信が越中朝日山城を攻撃していた時、北条氏政が上野国に侵攻します。

 上洛を目指す謙信の主戦場は既に関東でなく越中国でしたが、後顧の憂いを無くすため天正2年(1574年)、関東に出陣して上野金山城主の由良成繁を攻撃、3月には膳城・女淵城、深沢城、山上城、御覧田城を立て続けに攻め落とし戦果をあげます。

 天正4年(1576年)9月、畠山氏が守護をつとめる越中国に侵攻して、一向一揆支配下の富山城、栂尾城、増山城、守山城、湯山城を次々に攻め落とし、次いで椎名康胤(越中守護代)の蓮沼城を陥落させ康胤を討ち取り、ついに騒乱の越中を平定します。

 謙信が七尾城を攻めていた天正5年(1577年)、長続連の援軍要請を受けていた信長は、七尾城を救援する軍勢の派遣を決定、謙信との戦いに踏み切り、柴田勝家を総大将とする、羽柴秀吉、滝川一益、丹羽長秀、前田利家、佐々成政ら3万余の大軍は、8月に越前北ノ庄城に結集し、七尾城へ向けて越前国を発ち、加賀国へ入って一向一揆勢と交戦しつつ進軍しますが、進軍途中で秀吉が、総大将の勝家と意見が合わずに自軍を引き上げてしまうなど、足並みの乱れが生じます。

 織田軍が手取川を越えて加賀北部へ侵入したことを知るや、謙信はこれを迎え撃つため数万の大軍を率いて一気に南下し、謙信率いる上杉軍が目と鼻の先の松任城に着陣しているとの急報が入り、形勢不利を悟った勝家は撤退を開始したのに対し、謙信率いる上杉軍本隊の8千は23日夜、手取川の渡河に手間取る織田軍を追撃して撃破します(手取川の戦い)。

 天正5年(1577年)12月18日、謙信は春日山城に帰還し、12月23日には次なる遠征に向けての大動員令を発し、天正6年(1578年)3月15日に遠征を開始する予定でしたが、その6日前である3月9日、遠征の準備中に春日山城内の厠で倒れ、3月13日の未の刻(午後2時)に急死します。

享年49歳でした。