一日1分?結婚式挨拶・スピーチ・朝礼等が苦手なあなたも精神的苦痛やストレスから97.8%解放できる名言!!

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戦国武将 天下人 織田信長の名言-「死のうは一定。しのび草には何をしよぞ。一定語りおこすよの。」「戦国武将フィギュア」

目次 1 言葉の意味 「死のうは一定。しのび草には何をしよぞ。一定語りおこすよの。」

     雑談・豆知識(戦国武将フィギュア)

    3 戦国武将 織田信長とは

★1「死のうは一定。しのび草には何をしよぞ。一定語りおこすよの。」の意味

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この言葉は、「誰でも死は訪れるもの。死後に、自分が語り継がれる為に何をすればいいのか。後の世の人は、自分がしてきた行動を語り継いでくれるだろう。」という、意味です。

後世に名を残すといった凄い事は考えていませんが、家族は何と言って、子孫に自分の事を語り次いでくれるのでしょうか。

何もしていない自分。

一つの事を極めたことはないので、何か寝食を忘れて没頭できる趣味が欲しいと、ずっと思っています。

早く見つかればいいのですが(^-^;

 

★2 雑談・豆知識(戦国武将フィギュア)

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★3 戦国武将 織田信長とは

   織田信長は、天文3年(1534年)5月12日に、尾張国(現在の愛知県)の戦国大名である織田信秀の嫡男として生まれます。

 幼名は吉法師(きっぽうし)と言います。

 なお、信長の生まれた「織田弾正忠家」は、尾張国の守護大名である斯波氏の被官で下四郡(海東郡・海西郡・愛知郡・知多郡)の守護代に補任された織田大和守家(清洲織田家)の家臣にして分家であり、清洲三奉行の古渡城主という家柄でした。

 幼少から青年期にかけての信長は、奇天烈な行動が多く、周囲から尾張の「大うつけ」と言われていました。

 天文15年(1546年)には、古渡城にて元服し、上総介信長と称します。

 天文17年(1548年)には、父の信秀と敵対していた美濃国(現在の岐阜県)の戦国大名である斎藤道三との和睦が成立すると、その証として道三の娘である濃姫が信長に輿入れします。

  天文20年(1551年)には、父の信秀が没したため、家督を継ぎます。

  弘治2年(1556年)、信長の当主としての器量を疑問視した重臣の林秀貞(通勝)、林通具、柴田勝家らは、信長を廃して聡明で知られた弟である信行を擁立しようとしますが、柴田勝家の密告があり、事態を悟った信長は病と称して信行を清洲城に誘い出し殺害します。

 新たに守護として擁立した斯波義銀が斯波一族の石橋氏や、吉良氏と通じて信長の追放を画策していることが発覚すると、義銀を尾張国から追放します。

 こうして、永禄2年(1559年)には、尾張国の支配権を確立し、信長は尾張の国主となります。

 同年に信長は、80~100名ほどの軍勢を連れて上洛し、室町幕府13代将軍である足利義輝に謁見します。

 尾張国統一を果たした翌年である永禄3年(1560年)5月、今川義元が尾張国へ2万人とも4万人とも言われる大群で侵攻しますが、約4,000人の軍勢で今川軍の陣中に強襲をかけ今川義元を討ち取ります(桶狭間の戦い)。

 桶狭間の戦いの後、今川氏は三河国の松平氏(後の徳川家康)の離反等により、その勢力を急激に衰退し、これを好機として信長は、今川氏の支配から独立した徳川家康と手を結びます。

 斎藤道三亡き後、後を継いだ斎藤義龍が急死し、嫡男である斎藤龍興が後を継ぐと、信長は美濃国に出兵し、勝利します。

この際、信長は妹である「お市」を近江国(現在の滋賀県)の浅井長政に輿入れさせます。

  永禄11年(1568年)9月7日、信長は他国侵攻の大義名分として将軍家嫡流の足利義昭を奉戴して上洛し、第15代将軍に擁立します。

 翌年8月には、木下秀吉(後の豊臣秀吉)に命じて但馬国を攻め、山名祐豊を破ります。

 元亀元年(1570年)4月、信長は度重なる上洛命令を無視する朝倉義景を討伐するため、浅井氏との盟約を反故にし、盟友の徳川家康の軍勢とともに越前国(現在の福井県)へ進軍しますが、妹婿である浅井長政の離反され、撤退します。

 同年6月には、浅井氏を討つべく、近江国姉川河原で徳川軍とともに浅井・朝倉連合軍と対峙し勝利します(姉川の戦い)。

 将軍である足利義昭の画策で信長包囲網ができますが、元亀2年(1571年)2月には、朝倉・浅井に味方した比叡山延暦寺を焼き討ちにします。

 元亀4年(1573年)には、武田信玄が上洛を開始したのを皮切りに、京都の足利義昭が信長に対して挙兵しますが、上洛途上で武田信玄は病死し、二条御所や山城守護所(槇島城)に立て籠もった足利義昭も破り追放し、これをもって室町幕府は事実上滅亡します。

 信長包囲網の打破後、天正3年(1575年)5月信長は、3万人の軍と1,000丁程の鉄砲隊を率いて岐阜から武田勝頼討伐に出陣し、織田・徳川連合軍は武田軍に勝利します(長篠の戦い)。

 天正3年(1575年)11月には、権大納言と、征夷大将軍に匹敵する官職で武家では武門の棟梁のみに許される右近衛大将を兼任します。

 天正4年(1576年)1月には、琵琶湖岸に安土城の築城を開始し、天正7年(1579年)に完成したことで信長は、岐阜城を嫡男である信忠に譲り、完成した安土城に移り住みます。

 天正10年(1582年)5月には、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)より毛利輝元討伐軍の援軍要請を受け、中国遠征の出兵準備のために上洛し、本能寺に逗留します。

 ところが、秀吉への援軍を命じていたはずの明智軍が突然京都に進軍し、6月2日に本能寺を襲撃され、織田信長は自害します(ただし、死体は見つかっていません)。

 織田信長、享年49歳でした。